シンガポールにて
ジプシーのように定住場所がないような生活で、アメリカ、バンコクを経て、シンガポールに引越ししました。シンガポールは同じアジアでもバンコクとは違い綺麗で安全で住みやすい、一番良かったのは一人で歩いたり公共の交通機関に乗っても安心で、きちんと目的地まで行けるということでした。しかし、引越しをして荷物が片付いて生活にも慣れ始め、語学学校も通い終わるとまたポツとしてしまいました。海外で一人でいるのは本当に独りぼっちです。何かしたいな、と思っていた時に家から歩いて5分の距離にフラワーアレンジメントの教室があるのを知りました。先生は日本人で通われてる方もほとんどが日本人。これは自分の狭い世界を広げるチャンスとすぐに始めました。シンガポールは常夏の国です。四季がない為に花の種類が少ないかと思っていましたが、輸入花が沢山あり、かなり多くの花に触れることができました。先生のお手伝いで、花市場に時々行ったのですが、市場というかお店は冷蔵庫のごとく冷やしていてびっくり。赤道近くの国ですので、半袖にサンダル履きが当たり前なのですが、その格好では10分ぐらいしかいれないほどでした。南国の人特有の寒さへの憧れもあったのかもしれません。なるべく短い時間で先生と何を買うのか聞いたり、自分の欲しい花を買ったりしたのが、自分でお花を花屋さんで選んで買うのに役に立ちました。
アレンジメント教室は朝から長いときは夕方近くまで、ほぼ日中をそこで過ごしました。アレンジメントも1つだけではなく、2つぐらい作りましたのでとても勉強になりました。シンガポールは前の2か国と違って5年いることができましたので、帰国前には師範の資格を頑張って取得し、7年半の海外生活にピリオドを打ち、日本へ本帰国しました。
どうしたらいいの?
久しぶりの日本。引越し荷物との格闘が終わったころ、お花屋さんで働きたいという気持ちが大きくなりました。師範の資格は持っていても、一体どうやって教室を開けばいいのか、生徒はどうやって募集するのか、何より自信がありません。お花には慣れたけど、レッスンは別のはなしです。でもお花の仕事はしてみたい。そんな時、家から少し離れた場所でしたが大きなお花屋さんでパートの募集があるのをアルバイト雑誌で見たのをきっかけに面接に行きました。そこで言われたことが今でも記憶に残っています。そこの店長さんが「あなたは習っているときにはゆっくり作りたいものを作っていただろうけど、ここはそういう場所じゃないですから。やり方に従ってくださいね」確かにそれは当たり前です。ああ、お花の仕事ができると浮かれていたけど、そんな夢みたいに甘くなさそうだと現実を知りました、帰宅後、夫に面接が受かったので働きます、と話をしたところ、面接前にはそこまで異議を唱えっていなかったはずなのにまさかの反対にあいました。夫は昭和ど真ん中世代の亭主関白タイプ。妻が外で働くより家の中のことをしっかりやって欲しい人なので、最初は無理をしていたのかもしれません。けれど、一番の原因は私だったと今は思います。いざ働こうと思ったときにあまりにも夢を描きすぎていたので、トーンダウンしていたのも事実です。それが夫の反対という結果を招いたのかもしれません。人は思いの方向に進ん行くもの。結局、私はお断りをして、お花の仕事をその時はあきらめました。でも、心の中ではどうしたらいいの?やらなくて後悔はないの?と自問自答を繰り返していました。
③に続きます
名古屋市出身。幼少期からお使いを頼まれたついでにお花屋さんを覗いては小さな鉢植えを購入して母親にあきれられていました。
小学校のクラブ活動では造花クラブに所属しますますお花好きに。
社会人になりフラワーアレンジメント教室に通ったり、生け花を習ったり、自然とお花が横にある生活をしていました。
結婚後、横浜でアレンジメント教室に再び通い講師資格を取ろうと考えていた矢先に夫に海外転勤の辞令が下り一緒に外国に。
アメリカ、タイ、シンガポールと8年の駐在生活を経験。
シンガポールで素敵なフラワーアレンジメント講師の先生や仲間との出会いがあり、5年間アレンジメントを習い、講師資格を取得し帰国。その後出産と子育てで中断いたしましたが、子供の手が離れてきたことをきっかけにまたお花を習いたいという思いから、ラフルールでレッスンをはじめました。
久しぶりに始めたお花のある生活はとても楽しく、この先の人生を考えたときにずっと夢として持ち続けてきたお花に関わる仕事をする決意をしました。
お花は癒しの天才、そのお花を通して人と関わり、笑顔の花を咲かせていきたいと思います。
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